
強度行動障害の支援で、
親だけが置き去りにされる理由
強度行動障害のある子どもの支援では、
日々、現場で多くの判断が行われています。
声をかけるか。
距離を取るか。
介入するか、見守るか。
現場では当たり前のように行われている、
無数の判断。
けれど親に届くのは、
その判断の結果だけです。
親に届くのは「何が起きたか」だけ
連絡帳には、
次のような出来事が並ぶことがあります。
- 突然怒り出し、支援者を叩く行動がありました
- 興奮が高まり、噛もうとする場面がありました
- 近くにいたお友達を叩いてしまいました
- 送迎中、不満から靴を車外に投げました
事実としては、
間違っていません。
でも親が立ち止まるのは、
その直後です。
親の頭に浮かぶ「質問」
この報告を読んだとき、
親の頭には、こんな疑問が浮かびます。
- なぜ、そんなに怒ったのだろう
- 何か無理をさせていなかっただろうか
- 嫌なことが続いていなかっただろうか
- 止め方は、他になかったのだろうか
どれも、
責めるための質問ではありません。
「うちの子は、
どんな状態に追い込まれていたのか」
を知りたいだけです。
でも、親はその質問を口にできない
多くの親は、
この質問をそのまま投げません。
なぜなら、
- 現場を疑っていると思われたくない
- 支援を否定しているように聞こえそう
- 細かい親だと思われるかもしれない
そう感じてしまうからです。
結果、
質問は頭の中に残ったまま、
何も聞かれない。
親が静かになるのは、
納得したからではありません。
「なぜその行為が起きたのか」は、ほとんど共有されない
支援の報告では、
行為そのものは伝えられます。
しかし、
・その前に何があったのか
・何が積み重なっていたのか
・どこで兆候が出ていたのか
この前後関係が、
親に共有されることは多くありません。
理由は単純です。
支援現場では、
行為への対応が最優先になります。
そのため、
- 前兆をどう見ていたか
- 迷ったポイント
- 別の選択肢を考えたか
こうした判断の途中経過は、
記録にも、説明にも残りにくい。
重視されるのは「行為」になり、
「状態」は後回しになる
ここで、
すれ違いが起きます。
現場は、
・何が起きたか
・どう安全を確保したか
を重視します。
親は、
・なぜそうなったのか
・そこに至るまでの状態
を知りたい。
見ている焦点が、
最初からずれているのです。
現場が悪いわけではない
これは、
現場の怠慢ではありません。
多くの支援者は、
子どもの状態を見ています。
ただ、
「その見立てを親に渡す」
という発想が、
設計に入っていない
それだけです。
親は「正解」を求めているわけではない
親は、
- 完璧な対応
- 失敗のない支援
を求めているわけではありません。
ただ、
「そう判断した理由があった」
「無理をさせたわけではない」
それが分かれば、
多くの場合、受け止めることができます。
置き去りにされているのは、親の立場そのもの
親は、
- 現場にいない
- 判断に参加していない
- 専門家でもない
それでも、
「信じるかどうか」
という決断だけを求められる
この構造が、
親を置き去りにします。
親が置き去りにされない支援とは
判断を減らす支援ではありません。
判断の理由を、
少しだけ言葉にして渡す支援
それだけで、
親の不安は「不信」に変わらずに済みます。
このすれ違いの背景には、
強度行動障害そのものが持つ
構造的な問題があります。

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