
強度行動障害の支援で、
親が「安心した」と感じる瞬間はどこで生まれるのか
強度行動障害のある子どもを育てる親にとって、
「安心できる支援」とは何でしょうか。
支援がうまくいった日でしょうか。
トラブルがなかった日でしょうか。
実際には、
そうではないことがほとんどです。
支援が荒れていても、安心する日はある
怒った。
叩いた。
噛もうとした。
物を投げた。
そうした報告を受け取った日でも、
「今日は大丈夫だった」
「任せてよかった」
そう感じることがあります。
逆に、
落ち着いて過ごしました。
問題なく一日を終えました。
そんな報告の日でも、
胸の奥がざわつくことがある。
この違いは、
どこから生まれるのでしょうか。
親が安心するのは「結果」ではない
多くの支援現場では、
結果が丁寧に報告されます。
しかし親が安心するかどうかは、
結果の良し悪しでは決まりません。
親が見ているのは、
- この子の状態を、ちゃんと見ていたか
- 無理をさせていなかったか
- 人として扱われていたか
その一点です。
安心が生まれる瞬間
親がふっと力を抜けるのは、
こんな一文に出会ったときです。
「活動の切り替えが続き、
表情が固くなってきたため、
今日は早めに休憩を入れました」
この一文には、
- 行為の前兆を見ていたこと
- 状態を読み取っていたこと
- 安全だけでなく気持ちを考えていたこと
すべてが含まれています。
親はここで初めて、
「荒れたかどうか」ではなく、
「ちゃんと見てもらえていたか」
を確認できます。
専門的な説明は、必ずしも必要ない
親は、
- 理論
- 専門用語
- 評価指標
を求めているわけではありません。
欲しいのは、
「その子をどう見て、
どう判断したか」
それが伝わる、
ほんの一言です。
安心は「説明」で生まれるのではない
よく、
「親への説明が足りない」
と言われます。
でも実際には、
説明が足りないのではありません。
判断の背景が、
切り取られているだけ
です。
前後の流れ。
迷ったポイント。
見ていたサイン。
それが一言でも渡ると、
親の受け取り方は変わります。
安心は、信頼の入り口
ただ、このすれ違いは
親や現場の気持ちだけで生まれているものではありません。
強度行動障害という支援が持つ
構造そのものが、
判断や説明を分断してしまう側面があります。
その背景については、
固定ページで整理しています。
→
強度行動障害は「行動」の問題ではない|親・現場・制度から見えた真因
親が安心する=現場が楽になる
これは、
きれいごとではありません。
親が安心しているとき、
- 過度な確認は減る
- 疑念は生まれにくい
- やり取りは短くなる
つまり、
安心は、
現場の負担も減らします。
安心を生むのは、判断を「渡す」こと
完璧な支援は必要ありません。
うまくいかなかった日があってもいい。
大切なのは、
なぜその判断をしたのかを、
少しだけ言葉にすること
それだけで、
「この人たちは、
ちゃんと見てくれている」
そう感じてもらえます。
安心がないまま続く支援は、長くもたない
安心があるから、
親は任せられます。
任せられるから、
現場は支援に集中できます。
安心は、
おまけではありません。
支援が続くための、
土台です。
親が置き去りにされる構造については、
こちらの記事で詳しく整理しています。

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